社会が目まぐるしく変化していくなか、組織の管理者と労働者、利用者の関係もますます複雑化しています。
そのような状況で、医療機関の管理者が常に留意しておくべきことに、職員や患者に対する「安全配慮義務」があります。
今回は、過去の裁判例を参考に、医療機関における安全配慮義務の重要性や違反のリスク、その対応策について考えていきたいと思います。
安全配慮義務とは? 法的定義と適用範囲
ここでは、安全配慮義務の法的定義や適用範囲についてみていきたいと思います。
安全配慮義務の法的定義
「安全配慮義務」とは、労働者が健康かつ安全に働ける環境を提供するために、雇用者が負う法的義務のことを言います。
安全配慮義務の法的根拠としては、以下のとおり労働契約法や労働安全衛生法が関わってきます。
労働契約法における安全配慮義務
労働契約法では、使用者に対する安全配慮義務の法的根拠として以下のように定めています。
労働契約法(労働者の安全への配慮)
第5条「使用者は、労働契約に伴い、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとする。」
労働安全衛生法における安全配慮義務
また、労働安全衛生法では、事業者に対する安全配慮義務の法的根拠として以下のように定めています。
労働安全衛生法(事業者等の責務)
第3条「事業者は、単にこの法律で定める労働災害の防止のための最低基準を守るだけでなく、快適な職場環境の実現と労働条件の改善を通じて職場における労働者の安全と健康を確保するようにしなければならない。また、事業者は、国が実施する労働災害の防止に関する施策に協力するようにしなければならない。」
安全配慮義務の適用範囲
上記のとおり、労働契約法及び労働安全衛生法による法的根拠から、一般的に安全配慮義務には「健康配慮義務」と「職場環境配慮義務」の2点が含まれるとされています。
健康配慮義務
健康配慮義務とは、労働者の心身に支障が出ないよう配慮する義務と言われています。以下がその一例となります。
健康配慮義務
●健康診断の実施
●勤務時間管理
●メンタルヘルス対策など
職場環境配慮義務
職場環境配慮義務とは、使用者が労働者に対して働きやすい職場環境を維持する義務と言われています。以下が一例となります。
職場環境配慮義務
●作業環境の整備
●過重労働防止
●職場におけるいじめ防止
●ハラスメント対策など
安全配慮義務の対象者
安全配慮義務は、正規社員や契約社員、アルバイトなどの直接雇用の従業員が対象となります。
ただし、派遣社員や業務委託社員についても安全配慮義務があるとした裁判例もあることから、組織の管理者は職場の関係者全体に目を配る必要があります。
医療機関における安全配慮義務の重要性
医療機関には様々なリスクが取り巻いています。このリスクを適切に管理しなければ、医療機関自体にも重大な法的責任が問われる可能性があります 。
ここでは、医療機関における安全配慮義務の重要性について考えたいと思います。
医療機関における安全配慮義務の適用範囲
医療機関では、例えば手術室や感染症対策が求められる場所での厳格な安全管理が必要となります。これは、医療従事者の健康だけでなく、患者の安全にも直結することになります。
また、看護師や医師に対する適切な勤務時間管理や、ストレスケアも安全配慮義務の一環です。これにより、医療事故を防ぎ、患者に最良の医療サービスを提供することが可能になります 。
さらに、近年になって特に注意が必要になってきたものに、院内で発生するハラスメントに対する安全配慮義務があります。医療機関は、職員同士のいじめやハラスメントに対しても法的責任を負っているのです。
安全配慮義務違反が患者に及ぼす影響
医療機関が安全配慮義務の遵守を怠ると、職員の健康被害や職場環境の悪化が引き起こされる可能性が高まります。また、これが原因となり、患者に対する医療の質の低下につながることも考えられます。
職員を過重労働させたことによる医療ミスや、感染防止策の不備による院内感染の発生などがその一例として挙げられます。
職員の健康を守ることは、結果的に患者の安全を守ることにもつながります。
医療機関におけるハラスメントとメンタルヘルス上のリスク
近年、過重労働やハラスメントを原因としたメンタルヘルス不全により、医療従事者の精神障害の労災請求件数が増加している傾向にあります。
2023年度の精神障害決定で多くみられた具体的な障害要因の上位3位(全業種)は、以下のとおりとなっています。
これら全てではないにせよ、事業主の安全配慮義務違反の可能性は否定できないと思われます。
2023年度精神障害決定事案で多くみられた具体的な出来事(全業種)
1位 対人関係(上司とのトラブル) 599件※うち自殺27件
2位 パワハラ(上司等からパワハラを受けた) 289件※うち自殺11件
3位 仕事の量・質(仕事内容・仕事量の大きな変化) 265件※うち自殺34件
安全配慮義務が争点となった裁判事例とその影響
医療機関における安全配慮義務違反は、患者や従業員に深刻な影響を及ぼす可能性があり、法的責任を追及されるリスクも高まります。過去の違反事例を理解し、教訓を得ることが、今後のリスク管理において極めて重要です。
医療機関は、多くの人々の生命と健康を直接的に扱う場所であり、安全配慮義務の遵守が特に求められます。これを怠ると、患者の健康被害や従業員のストレスによる労働環境の悪化、ひいては医療事故の発生につながり、組織全体の信用を失う可能性があります。
実際のケーススタディ(誠昇会北本共済病院事件)
ここでは、実際の裁判例から医療機関における安全配慮義務の重要性について学んでいきたいと思います。
厚生労働省が運営するハラスメント対策の総合情報サイト「あかるい職場応援団」にて、過去に医療機関が対象となった裁判例が掲載されていますので紹介したいと思います。
この事案では、先輩看護師によるいじめと医療機関の法的責任が問われました。
事案の概要
この事案は、医療法人Yに勤務していた男性准看護師X(当時21歳)の自殺した原因が、職場の先輩看護師によるいじめにあったとして、Xの両親が先輩看護師や医療法人Yに対して損害賠償を求めたものです。
この請求に対して裁判所は、先輩看護師の違法ないじめによって准看護師Xが自殺に追い込まれたものとして、先輩看護師の損害賠償責任(賠償金額1,000万円)を認めました。
また、使用者である医療法人Yについても、Xが被った精神的苦痛の慰謝料500万円の賠償責任を認めたのです。
Xが自殺に至るまでの経緯は以下のとおりです。
X(男性)はY病院に入社し、看護師資格の取得を目指し看護専門学校に通学しながら准看護師として勤務していました。同病院には男性准看護師5名が勤務しており、Aが一番上の先輩で、Xが一番下の後輩でした。男性准看護師の間では先輩の言動が絶対的とされ、一番先輩であるAが後輩を服従させる関係が継続しており、AからXに対し、次のようないじめや嫌がらせがありました。
① 勤務時間終了後も、Aらの遊びに無理矢理付き合わされたり、Xの学校試験前に朝まで飲み会に付き合わされた。② Aの肩もみ、家の掃除、車の洗車などの雑用を一方的に命じられた。
③ Aの個人的な用事のため車の送迎等を命じられた。
④ Xが交際している女性Bと勤務時間外に会おうとすると、Aから仕事だと偽り病院に呼出を受けたり、AがXの携帯電話を無断で使用し、Bにメールを送る等した。
⑤ 職員旅行において、AがXに一気のみを強い、急性アルコール中毒となった。
⑥ 忘年会においてAらがXに対し職員旅行におけるアルコール中毒を話題にして「あのとき死んじゃったら良かったんだよ、馬鹿」「うるせえよ、死ねよ」等と発言した。その後も引き続きAらは、Y病院の仕事中においても、Xに対し何かあると「死ねよ」と告げたり、「殺す」などの文言を含んだ電子メールを送信した。
⑦ 自殺直前、Xはからになった血液検査を誤って出したところ、Aにしつこく叱責された。同日のY病院外来会議で、からの検体を出したり、Xの様子がおかしいことが話題になったところ、Aはその席で、Xにやる気がない、覚える気がないなどとXを非難した。
請求内容
Xが自殺したところ、遺族(両親)がAおよびY病院に対し、いじめによってXが自殺に追い込まれたとし、民事損害賠償請求を提起したものです。
地裁判決
●A個人の損害賠償責任と損害賠償額
「認定の事実関係によれば、Aは、自ら又は他の男性看護師を通じて、Xに対し、冷かし・からかい、嘲笑・悪口、他人の前で恥辱・屈辱を与える、たたくなどの暴力等の違法な本件いじめを行ったものと認められるから、民法709条に基づき、本件いじめによってXが被った損害を賠償する不法行為責任がある。」「AらのXに対するいじめは、長期間にわたり、しつように行われていたこと、Xに対して「死ねよ。」との言葉が浴びせられていたこと、Aは、Xの勤務状態・心身の状況を認識していたことなどに照らせば、A は、X が自殺を図るかもしれないことを予見することは可能であったと認めるのが相当である」として、Aに対し慰謝料として1.000万円の損害賠償額を遺族に支払うよう命じました。
●Y病院の債務不履行責任
「Y病院は、Xに対し、雇用契約に基づき、信義則上、労務を提供する過程において、Xの生命及び身体を危険から保護するように安全配慮義務を尽くす債務を負担していたと解される。具体的には、職場の上司及び同僚からのいじめ行為を防止して、Xの生命及び身体を危険から保護する安全配慮義務を負担していたと認められる。」 「これを本件についてみれば、Aらの後輩に対する職場でのいじめは従前から続いていたこと、Xに対するいじめは3年近くに及んでいること、本件職員旅行の出来事や外来会議でのやり取りは雇い主であるY病院も認識が可能であったことなど上記認定の事実関係の下において、Y病院はAらのXに対する本件いじめを認識することが可能であったにもかかわらず、これを認識していじめを防止する措置を採らなかった安全配慮義務違反の債務不履行があったと認めることができる。したがって、Y病院は、民法415条に基づき、上記安全配慮義務違反の債務不履行によってXが被った損害を賠償する責任がある。」
●Y病院の損害賠償額
上記認定の事実関係の下において、Y病院がAらの行った本件いじめの内容やその深刻さを具体的に認識していたとは認められないし、いじめと自殺との関係から、Y病院は、Xが自殺するかもしれないことについて予見可能であったとまでは認めがたい。」「Y病院は、本件いじめを防止できなかったことによってXが被った損害について賠償する責任はあるが、Xが死亡したことによる損害については賠償責任がない」としてXが本件いじめによって被った精神的苦痛に対する慰謝料のうち500万円の限りにおいて、Aと連帯して損害賠償責任を負うよう命じました。
裁判例からの学び
この裁判例から学ぶべきこととして、以下の点が挙げられます。
誠昇会北本共済病院事件から学ぶこと
●医療機関が労働者に対して負う安全配慮義務の中に、「職場の上司及び同僚からのいじめ行為を防止して、労働者の生命及び身体を危険から保護する」義務が含まれることに留意
●医療機関及び職員を管理する上司が、職場内におけるいじめやハラスメントの存在を軽視・無視することで、自院の法的責任を問われる可能性がある
●いじめやハラスメントの兆候があれば、速やかに相談に応じることや、院内に設置された相談窓口を紹介し、いじめやハラスメント防止に向けた取り組みを徹底する必要がある
●平時から労働関係法規に則った手続きを実践しておくことで、将来の紛争防止や非常時の適正な解決につながる
安全配慮義務に関わるその他の裁判事例
安全配慮義務違反に関する近年の裁判事例については、厚生労働省が運営する「働く人のメンタルヘルス・ポータルサイト こころの耳」にも掲載されています。
医療機関以外の裁判例ですが、参考までに以下のとおり紹介します。
事業所の安全配慮義務が争点となった裁判例
●メンタルヘルス不調による自殺について業務負荷との因果関係や予見可能性等が検討された裁判事例(山田製作所事件)
●うつ病による過労自殺について使用者の安全配慮義務違反を認めるリーディングケースとなった裁判事例(電通事件)
●うつ状態による退職1か月後の自殺について使用者の安全配慮義務違反が認められるも損害額が減額された裁判事例(東加古川幼児園事件)
●会議中の脳出血による後遺障害について会社および産業医の損害賠償義務が認められなかった裁判事例(北興加工機事件)
過去の裁判例から学んでリスク低減を
医療機関での安全配慮義務違反は、患者と従業員双方に甚大な影響を及ぼします。前掲した誠昇会北本共済病院事件など、過去の裁判例から学び、適切な予防策とリスク管理を徹底することで、同様の問題が再発するリスクを減らすことが可能となります。
安全配慮義務を遵守するための3つの具体的対策
医療機関が安全配慮義務を遵守するには、以下に示す3つの具体的対策が挙げられます。これらの対策を講じることにより、職場環境の安全性を高め、従業員と患者の双方を守ることが重要となります。
安全配慮義務を遵守するための3つの具体的対策
①予防策の徹底
②リスク管理の強化
③定期的なチェックリストの導入
①予防策の徹底
リスクが発生する前に、問題を予防することが最も重要となります。
例えば、定期的なハラスメント研修やメンタルヘルス研修は必須の取り組みとなると思います。当然、医療の質を担保する取り組みも必要となります。医療安全や感染対策研修はほとんどの医療機関で取り入れていると思いますが、これらの地道な取り組みによって、患者に対する安全につながります。
また、定期健康診断やストレスチェックの実施により、職員の健康状態を定期的にチェックし、早期に問題を発見することも有効です 。
さらには、その結果に基づき、産業医や産業保健スタッフによるカウンセリングの機会を十分に提供することも重要になります。院内での体制が不十分な場合は、EAPと呼ばれる外部の従業員支援プログラムを活用することも有用です。
なお、厚生労働省による「労働者の心の健康の保持増進のための指針」で示す4つのケアの実践は、医療機関の管理者にとって、安全配慮義務を履行するうえでの必須条件となると思います。
「労働者の心の健康の保持増進のための指針」で示す4つのケア
①セルフケア
労働者が、自身のストレスのことを知り、予防や対処を行い、健康の保持増進に努めること
②ラインによるケア
職場の管理職が、職場環境の改善や従業員のメンタル不全の気づき相談を行い、産業医との連携を図ること
③事業場内産業保健スタッフ等によるケア
職場の産業医などの健康管理室が、随時の相談や職場復帰の判定を行うこと
④事業場外資源によるケア
職場外の専門機関から、メンタルヘルスの支援を受けること
EAP(従業員支援プログラム)など
②リスク管理の強化
医療機関では、リスクアセスメントを定期的に行うことで、リスクの特定と評価を行う必要があります。
例えば、手術室における安全管理や、医療機器の適切な使用方法の確認などがこれに含まれます。
また、医療安全部門を中心に、リスクが発生した場合の対応策も事前に策定しておくことで、迅速かつ効果的な対応が可能になります。
各種マニュアルは往々にして整備してそのままになっていることが多いと思いますが、特に医療安全に関係するマニュアルは定期的な見直しが非常に重要となります。
③定期的なチェックリストの導入
安全対策が確実に実施されていることを確認するために、定期的なチェックリストを導入することが重要です。これにより、医療機関全体での安全衛生状況を定期的に確認し、必要な改善を迅速に行うことが可能となります。
特に、医療機関特有のリスクとして想定される医療安全や感染症対策、また、近年になって組織の管理者に強く求められているコンプライアンスやハラスメント、労務管理に対応する項目を含めることが重要となります。
安全配慮義務違反が発生した場合の4つの対応方法
安全配慮義務違反が発生した場合、迅速かつ適切な対応が求められます。適切なトラブルシューティングと再発防止策を講じることで、さらなるリスクを回避し、法的な問題を未然に防ぐことができます。
ここでは、医療機関が安全配慮義務違反が発生した場合の対応方法として、以下に示す4つの対応方法について考えていきたいと思います。
安全配慮義務違反が発生した場合の4つの対応方法
①トラブルシューティング
②迅速な対応策
③再発防止策
④法律相談の手順
①トラブルシューティング
自院で問題が発生した場合、まず原因を迅速に特定し、関係者と協力して問題を解決する必要があります。
例えば、過重労働が原因で職員が心身に障害を発症した場合、直ちに勤務時間の調整や休養の指示をすることが必要です。
また、問題の原因となった勤務体制や業務フロー、職場環境を見直し、改善策を取り入れます。
②迅速な対応策
自院で問題が発生した際には、速やかに適切な対応策を講じることが重要です。前掲の裁判例では、職員間のいじめが原因で自殺者が出ていますので、多くの説明は不要だと思います。
具体的には、安全衛生委員会等の所定の委員会にて議論を行い、場合によっては顧問弁護士など専門家の助言を受けながら対応策を策定し、速やかに実行に移すことが大事になります。
③再発防止策
トラブルが発生した後は、同様の問題が再発しないよう、再発防止策を講じます。これには、リスクアセスメントの見直しや、教育研修の強化が含まれます。
特に医療機関では、医療安全や感染症予防、ストレスマネジメントの強化が再発防止に重要となります。
④法律相談の手順
医療機関において法的な問題が発生した場合には、速やか顧問弁護士などの専門家に相談し、法的リスクを最小限に抑えるための対応策を検討します。
適切な法律相談を受けることで、問題がさらに深刻化する前に対応策を講じることができます。
まとめ
今回は、医療機関における安全配慮義務の重要性や違反のリスク、その対応策について考えてきました。
医療機関として安全配慮義務に関わる法的リスクを避けるためには、労働契約法や労働安全衛生法などの労働法の遵守が不可欠となります。
また、医療現場や職場環境の定期的なチェックや見直しを行うことで、安全配慮義務違反のリスクを最小限に抑えることができます。特に、過重労働やハラスメント、院内感染に関する問題が発生した場合は、迅速に対応することが求められます 。
医療機関における安全配慮義務の履行は、職員の健康と安全を守るだけでなく、組織全体の信頼性を高めることに繋がります。適切な対策を講じることで、労働環境の改善と法的リスクの回避が可能となります。
今回の記事が、少しでも何かのお役に立てれば幸いです。