人的資本経営の考え方と医療機関が実践する際のポイントとは

いま社会全体が、人材確保に奔走しています。その背景には、少子高齢化や産業構造の変化、コロナ禍をとおした価値観や職業観の多様化があります。

そのなかで、政府は2020年9月に、通称「人材版伊藤レポート」を発表し、「人的資本経営」という考え方を示しました。

労働集約型産業と言える医療機関においては、そこで働く人材の質こそが、施設の質を決めると言ってもいいと思います。

多くの医療機関にとって、この「人的資本経営」という考え方を活用することで、喫緊の課題とも言える人材確保の道筋が見えるかも知れません。

今回は、人的資本経営の考え方や、医療機関が実践する場合のポイントなどについてみていきたいと思います。

目次

人的資本経営の概念を示す「人材版伊藤レポート」を紐解く

人的資本経営とは?

そもそも人的資本経営とはどのような考え方を指すのでしょうか。

人的資本経営とは、組織における人材を、これまでの管理する対象の「資源」という考え方から、価値を創造する投資の対象となる「資本」と捉え、人材の価値を最大限に引き上げることで、中長期的に企業価値を向上させていく経営のあり方を言います。

人材版伊藤レポート」とは?

2020年9月に発表された通称「人材版伊藤レポート」は、正式名称を「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会 報告書」と言います。

この研究会の座長を務めた、一橋大学CFO教育研究センター長・伊藤邦雄氏にちなんで「人材版伊藤レポート」と呼ばれ、発表以降は国内企業が、その理念を自社に取り入れようと必死になっています。

持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会 報告書 ~人材版伊藤レポート~(METI/経済産業省)

経済産業省ホームページより引用

「人材版伊藤レポート」のポイント

ここでは、「人材版伊藤レポート」のポイントについて確認したいと思います。

「人材版伊藤レポート」のポイント

1.前述の研究会座長である一橋大学CFO教育研究センター長・伊藤邦雄氏により、通称「人材版伊藤レポ ート」が取りまとめられる。

2.組織における人材を、管理する対象としての「資源」という考え方から、価値を創造する投資の対象となる「資本」と捉え、人材の価値を最大限に引き上げることで、中長期的に企業価値を向上させていく経営のあり方を示した。

3.その背景には、少子高齢化や産業構造の変化、コロナ禍による企業・個人を取り巻く環境の変化により、個人の生活観や職業観の変化がある。企業はこれに対応する必要がある。

4.人的資本経営の理念となる6つの「変革の方向性」を明示した。 

5.人材戦略には「3つの視点」と「5つの共通要素」が必要であるとした(3P・5Fモデル)

「人材版伊藤レポート」では、急激な環境変化により、企業は多くの課題を抱えているものの、それは人材面の課題にもつながるため、迅速に対応する必要があること、また、経営理念にまで立ち返って、持続的な価値の向上につながる人材戦略に変革しなければならないと説明しています。

人的資本経営における「変革の方向性」とは?

この伊藤レポートでは、人的資本経営における「変革の方向性」として下表のとおり明確に示されています。

➊人材マネジメントの目的「人的資源・管理」→「人的資本・価値創造
➋アクション「人事」→「人材戦略
➌イニシアティブ「人事部」→「経営陣・取締役会
❹ベクトル・方向性「内向き」→「積極対話
❺個と組織の関係性「相互依存」→「個の自律・活性化
❻雇用コミュニティ「囲い込み型」→「選び、選ばれる関係
伊藤レポート・人的資本経営における「変革の方向性」
  • 人材は「コスト」であり、管理する対象と捉えていたが、価値を生む「投資」と考える。
  • 人事制度の運用管理に留まるのではなく、経営戦略から落とし込んだ人事戦略を策定し、持続的な企業価値向上を目指す。
  • 人事部門任せにしていたのを、経営陣の主導で経営戦略と連動させた人事戦略を策定し、取締役会でチェックする。
  • 囲い込み型人事による内向き志向から、投資家や従業員と対話や発信をしていく。
  • 硬直的文化による相互依存関係から、ともに成長できる活性化した組織にする。
  • 終身雇用、年功序列の囲い込み型の関係から、互いが選び合う多様でオープンな関係になる。

人材戦略の「3つの視点」と「5つの共通要素」とは?

この伊藤レポートには、人材戦略を進めるうえでの「3つの視点」と「5つの共通要素」(3P・5Fモデル)が示されています。

3つの視点(Perspectives)

①経営戦略と人事戦略の連動これまでは、人事部門における人事制度の運用が中心となり、経営戦略との紐づけがなされなかった。自社に適した人事戦略を策定するためにも、経営戦略と連動した具体的戦略を考えていく必要がある。
②As is-To beギャップの定量把握「現在の姿」と「目指すべき将来の姿」とのギャップを定量的に把握し、PDCAサイクルで随時見直ししていく必要がある。
③企業文化への定着兼業・副業やリモートワーク等の多様な働き方を含め、人材戦略の実行プロセスをとおした、企業文化へ定着させる取り組みをしていく必要がある。
伊藤レポート・人材戦略の「3つの視点」

5つの共通要素(CommonFactors)

①動的な人材ポートフォリオ適材適所の観点から、経営戦略のための質と量、両面での人材の充足や最適化を図る必要がある。
②知・経験のダイバシティ&インクルージョン性別や年齢、国籍などの属性に加え、他業界における専門性や経験を取り込む必要がある。
③リスキル・学び直し急激な環境変化や個人の多様化へ対応するため、専門性の向上や、個人の自律的キャリアの構築を支援していく必要がある。
④従業員エンゲージメント経営戦略実現のため、従業員が働きがいを感じる環境を整備する必要がある。
⑤時間や場所にとらわれない働き方いつでも、どこでも、安心して働ける環境整備を平時から行う必要がある。
伊藤レポート・人材戦略の「5つの共通要素」

医療機関で人的資本経営を実践する方法とは?

医療機関においては、2年に1回ある診療報酬改定や、本格的に始まる地域医療構想などの対応があるため、中長期を見越した人材戦略には難しい面がつきまといます。

ただ、将来の成長に向けて優秀な人材を確保し、経営の安定化を図るためにも、人的資本経営の考え方を取り入れることは有益だと考えます。

医療機関が考えたい人的資本経営実践の3つのポイント

これまでみてきたとおり、この人材版伊藤レポートは、あくまでも企業向けの指針となります。

もし医療機関で人的資本経営を実践する場合、以下の意識を持つことが重要です。

①「できること」と「できないこと」を取捨選択する

②「できること」のなかで優先順位をつける

③優先順位の上位で、手の付けられそうな項目から着手していく

「変革の方向性」の共通認識から始める

まず、医療機関が「できること」としては、前述した人的資本経営における「変革の方向性」を自院に当てはめ、経営層で自院が進める変革の方向性の共通認識を持つことだと思います。

医療機関の運営上、「変革の方向性」の考え方のポイントとして以下のとおり挙げられます。

①人材マネジメントの目的:
「人的資源・管理」→「人的資本・価値創造」
医療スタッフは、コストと見なして管理する存在ではなく、チーム医療にシナジー効果を与えて、自院に価値を創造する「人財」であると考える。
②アクション:
「人事」→「人材戦略」
職種ごとに人材確保策を講じるのではなく、まず中長期的な医療機関全体の経営戦略を立て、それに紐づいた人事戦略を策定する。
③イニシアティブ:
「人事部」→「経営陣・取締役会」
人事部門や各職種の部門長任せの人材確保策ではなく、経営層が策定した経営戦略から落とし込まれた人事戦略を基に、人材確保を行い、随時経営層がチェックを行う。
④ベクトル・方向性:
「内向き」→「積極対話」
経営層のみの会議とは別に、経営層から医療スタッフへ直接アナウンスする機会を定期的に設け、経営方針を含めた対話の機会を設ける。
⑤個と組織の関係性:
「相互依存」→「個の自律・活性化」
従来からのルールや規範、人間関係を重視した、硬直的文化による相互依存関係ではなく、医療機関はスタッフに学びの機会を与え、スタッフは自律的に学びを深めて組織に貢献する、ともに成長し合う活性化した組織を目指す。
⑥雇用コミュニティ:
「囲い込み型」→「選び、選ばれる関係」
終身雇用、年功序列的な旧来の雇用から、積極的に外部人財を取り入れ、能力に応じた客観的な評価も行い、多様性を認めるオープンな組織にして、互いが選ばれる関係になる。
「変革の方向性」の考え方のポイント

医療機関で人材戦略を考える際の3つのポイント

「変革の方向性」の共通認識をもつことができたら、次に人材戦略の策定にあたります。

上記の実践のポイントを踏まえて、実際に医療機関が人材戦略を策定する際のシミュレーションを行っていきたいと思います。

①「できること」と「できないこと」を取捨選択する

まず、「3つの視点」と「5つの共通要素」、それぞれの取捨選択からスタートしていきます。

3つの視点(Perspectives)

視点① 経営戦略と人事戦略の連動
できる。病院理念に紐づいた経営戦略を策定し、それに連動させる人事戦略を練っていく。

視点② As is(現在の姿)-To be(目指すべき姿)ギャップの定量把握
できる。病院理念の浸透度などについてアンケート調査を行う。客観性を保つため業者への依頼も検討。

視点③ 企業文化への定着
できる。院長や経営層からスタッフに向けたアナウンスや、対話の機会を定期的に設ける。

5つの共通要素(CommonFactors)

要素① 動的な人材ポートフォリオ
すぐにはできない。人材戦略上の課題とし、可及的速やかに質と量の両面でスタッフを充足させ、人材ポートフォリオの最適化を図る。

要素② 知・経験のダイバシティ&インクルージョン
すぐにはできない。人材戦略上の課題とし、オープンな文化の土壌を地道に育み、専門性をもった外部人材の獲得を目指す。

要素③ リスキル・学び直し
できる。計画的にスタッフへの教育の機会を与え、学んだ知識やスキルを業務に活用できる配置の検討も行う。スタッフが自律的に学びを深める風土づくりも併せて行う。

要素④ 従業員エンゲージメント
できる。病院理念や経営方針について、院長から直接スタッフに語りかける。目標管理制度や「1 on 1」を取り入れ、自院への愛着や貢献意欲を促す。

要素⑤ 時間や場所にとらわれない働き方
できない。医療サービスの提供上、時間と場所の限定は必要。

②「できること」のなかで優先順位をつける

次に、上記で「できる」と判断した視点や要素のなかで、優先順位をつけていきます。

優先順位1 視点②As is(現在の姿)-To be(目指すべき姿)ギャップの定量把握
  ↓
優先順位2 視点①経営戦略と人事戦略の連動
  ↓
優先順位3 視点③企業文化への定着
  ↓
優先順位4 要素④従業員エンゲージメント
  ↓
優先順位5 要素③リスキル・学び直し

③優先順位の上位で、手の付けられそうな項目から着手していく

最後に、優先順位の上位の項目を眺めてみて、手の付けられそうな項目から順次着手していきます。

何事も、現状と課題のギャップを把握することから始める必要があります。

「優先順位1」として掲げた、「視点②As is(現在の姿)-To be(目指すべき姿)ギャップの定量把握」の施策としては、『病院理念等に関するスタッフへのアンケート調査』、が考えられます。

課題が浮き彫りになったら、次に「視点①経営戦略と人事戦略の連動」に取り掛かります。

本記事のポイント

今回の記事と、改めて「人材版伊藤レポート」の内容を簡単にまとめると、以下のとおりとなります。

1.「人材版伊藤レポート」では、人的資本経営の理念となる6つの「変革の方向性」を明示した。
「変革の方向性」 
 ①目的:「人的資源・管理」→「人的資本・価値創造」
 ②アクション:「人事」→「人材戦略」
 ③イニシアチブ:「人事部」→「経営陣・取締役会」
 ④ベクトル:「内向き」→「積極的対話」
 ⑤個と組織の関係性:「相互依存」→「個の自律・活性化」
 ⑥雇用コミュニティ:「囲い込み型」→「選び、選ばれる関係」

2.人材戦略は、「3つの視点」と「5つの共通要素」で考える
3つの視点(Perspectives)
 視点① 経営戦略と人事戦略の連動
 視点② As is(現在の姿)-To be(目指すべき姿)ギャップの定量把握
 視点③ 企業文化への定着
5つの共通要素(CommonFactors)
 要素① 動的な人材ポートフォリオ
 要素② 知・経験のダイバシティ&インクルージョン
 要素③ リスキル・学び直し
 要素④ 従業員エンゲージメント
 要素⑤ 時間や場所にとらわれない働き方

3.医療機関が人材戦略を考える際、まず「できること」と「できないこと」を取捨選択する

4.「できること」のなかで優先順位をつける

5.優先順位の上位で、手の付けられそうな項目から着手していく

6.医療機関としては、視点②「As is(現在の姿)-To be(目指すべき姿)ギャップの定量把握」から着手するのが妥当か

まとめ

実際、医療機関においては、2年に1回必ず訪れる診療報酬改定の対応などもあり、中長期を見越した人材戦略の策定など困難な側面があります。

ただ、構えて何もしないより、できそうなところから着手して徐々に進めていくことが望まれると思います。

今回の記事が、少しでも何かのお役に立てれば幸いです。

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この記事を書いた人

吉澤社労士事務所代表。社会保険労務士、日本FP協会AFP認定者。医療機関で25年間事務職に従事。総務、経理、医事、健診部門など幅広く経験を積み、2024年4月に独立。地元・東京都日野市にて医療機関専門社労士として活動中。
医療機関に役立ちそうな情報を発信していきますので、今後ともよろしくお願いします。

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